まっどさいえんちすと

日本語が苦手なのでブログで練習します。パエリアが大好き

医師を目指した6年間で感じたこと

 「良い医者になること」と「患者さんを救うこと」は同じでしょうか?本来は同じべきです。良い医者になると、多くの患者を素晴らしく救うことができます。しかし、現代の医療、医学部にそのような雰囲気は感じません。医者の多くは「良い生活を送るため、自分が偉くなるための材料が医療」としか考えていないでしょう。「患者さんを救いたい」という気持ちを忘れている日本中の医学生は、結果として6年間だいたい同じような生活を送るでしょう。6年生になると、初期研修病院を決める時に多くの医学生は「手技ができる」「給与が良い」「雰囲気が良い、先輩がいる」。このような志望理由に、「患者さんを助けたい」という気持ちはあるでしょうか。この6年間、医学部の活動(部活動、定期試験、国家試験、研究、マッチングシステム)の中で、どれだけ「患者さんのためになるか」という視点で努力をしているでしょうか。さらに医者になってからも、「専門医をとる」や「大学で博士をとる」。これらは本当に「患者のためになっているのか?」ということです。

 このような自己中心的な活動が盛んになるのは、日本の医学部が大学受験の延長戦上だからです。最難関の医学部に合格するような人間は、他人に勝ちたい、自分が目立ちたいというような精神が強いのは当たり前です。しかし医師になるには、どこかで「患者さんを救いたい」という気持ちを強く持たなければなりません。とはいっても、そんなことは理想論なわけです。「患者さんの気持ちを考えています。そのために博士課程にいって研究をします」などは誰でも言えるわけです。逆に「自分のキャリアのためにならない、一見すると全く勉強にならないが、患者さんが困っているので3年間、地方の小児科にいきます」など言う人はいない。このようなけしからん状況を打破するには、「医者になる人は、たくさん勉強した努力家」という概念を根本的に破壊しなければなりません。「良い医者になる」ではなく「たかが医者だが、患者さんのために何ができるだろうか」と24時間考えてくれる人を医学部は育てるべきです。

 そのためには知識偏重型の医学部のシステムを大きく変える必要があります。暗記と類推は全てコンピューターができます。できていないのは思いやりです。僕は医師国家試験のあり方に問題があると感じます。なので新しい医師国家試験の形を提案します。それは医学部生1人と医師1人が6年間、密接にコミュケーションをとります。そして6年間の結果として、医師がその医学生を医者にして良いか(医師免許を与えて良いか)、判断をします。このようなスタイルは、中世では多く取られています。地域の医師コミュニティが資格を与えるのです。それは筆記試験の場合もあれば、家柄や普段の生活なども含まれます。

 中世ヨーロッパの医師の間では、オノラリアという習慣がありました。医師は、治療のために患者のもとを訪れる際、背中に口の開いた袋を背負ってやってきます。医師が治療を終えて家を出る際、患者やその家族は、医師の背にあるその袋の中へいくばくかのお金を入れるだけです。金額は、払う側の意思のまま、こころざしのままであり、いくら入れるかは問題ではないのです。これは、お金を入れる行為が単なる「サービスに対する対価」ではなく、「医師という仕事に対する名誉を尊重し、敬意と尊敬を表明する行為」であると考えられたからです。