まっどさいえんちすと

日本語が苦手なのでブログで練習します。パエリアが大好き

なぜ医師は素晴らしい倫理を持たなければ行けないか

最近体調を崩しています。体調管理大事ですねー。

タイトルについて、僕の見解というより、読者の皆さんが「っは!?」って不安になってくれれば幸いです。

「どうしてお医者さんは聖人ではなくては行けないの?」
「それは患者さんの命に関わることであり、信頼されるお医者さんになることが良いお医者さんの条件だからです」

このやりとり。「聖人になる必要があるのは、良いお医者さんになることにつながる」から。
これは結果重視ですね!良いお医者さんになるという結果が欲しいから、聖人になる。
あれ、、、、でも「刑務所にいる人を殺して臓器を取り出して、いまの患者さんに移植する」というお医者さんは、良いお医者さんでしょうか?

わかりません。しかしわかったことは一つ。ここで躊躇うということは、結果よりも、みんな実は行為の方が気になっている。つまり「良いお医者さんになること」よりも、「聖人になる」とか「刑務所にいる人から移植する」という行為に問題があるということですね。

さてこの行為ですが、「何でも話を聞いてくれるお医者さん」、「刑務所から人を殺して、臓器を移植してくれるお医者さんん」どちらが良いお医者さんですか。患者さんの立場になってみましょう。
「話を聞いてくれて、安心して死に迎える」という患者さんもいれば
「臓器を移植してくれる素晴らしいお医者さん、死から救ってくれるお医者さ、すごい」という患者さんもいます。

うーぬ、どちらが良いお医者さんでしょうか。しかしここで、わかったことがまた一つ。
上の二つ、どちらが幸福か、というのは人によるのではないか。

まてまて、すると、「聖人になること」、「刑務所から臓器を取ってくること」じつは「良いお医者さん」というのは、どちらもそうなのではないか。

じゃあ医師会で同意でも取って決めちゃいましょう。例えば「刑務所から臓器を医師は取ってきても良い」ってね。
同意は強いルールですねぇ。これに強い反対をする人はいるのでしょうか。結果的に見れば、一番効用が高いと考えられます。

ここでいくら同意でもまた思うよね。「え、いくら同意であっても、それって道徳的にまずくない?」
そうしてお医者さんは続ける。「刑務所から臓器を取ってくるのは良くない。そんなことしたら、患者さんは、まず怖がって自分のところに診察にこないかもしれないし、ましてや、自分が医療訴訟や税金の申告し忘れで、刑務所に入ったら、最悪だ」と考える。


逆のケースでも同じ。「聖人になることがお医者さんの条件である」という意識があるとする。
「聖人にならないと、患者さんを良い治療ができなしし、治せないし、結果的に、自分は将来、職を失うかもしれない」

え、これはなんか不自然だ。動機が不純。効用や欲望を満たすために、聖人になろうとしている気がする。
道徳的に価値がない。

じゃあ「何も考えずに、聖人になると意識すること」は道徳的に価値があることなのか。
いや、ちょっと待て。「何も考えずに、刑務所から臓器移植をする」ということも、もしかしたそのお医者さんは「刑務所から臓器移植をすることで、清く正しく生きている人を治療したい」そう思ってる。道徳的に「人を助けたい」というレベルで同じではないか。

あれ、じゃあ「良いお医者さんの定義」みたいなものって、行動によって判定できるのか。それとも動機によって判定できるのか。どっちなんだ。

ここである人は言う。「自分の心の底の道徳原理に従えば、問題ない。それは人間、全員が持っている純粋理性だ」
ふむふむ、この意見の説明のために例を出してみる。
「あなたは、目の前の患者さんは、100人殺した殺人犯です。しかし癌で明日死にます。しかし助かる薬が一つあります。その時、この殺人犯に、「俺が助かる方法はないのか?」と刃物を向けられました。さてどうする」

うーむ、嘘をついて「薬はない」といって、この男を殺し、自分が殺されるか。
逆に、そのまま「薬はある」といって、この殺人犯を延ばしにするか。

先ほどの絶対的な道徳に従うならば、正直に「薬はある」と言うだろうか。嘘をつくことは、殺人犯を殺すことができても、道徳的に間違っていないか。

ここでまたわかったことが一つ。「どこにそんな道徳原理を求めれば良いのか、自分の中をいくら探しても、出てこないよ」

明日は病理学試験のため、ここまでにさせて頂きます。