まっどさいえんちすと

日本語が苦手なのでブログで練習します。パエリアが大好き

確率の解釈について

タイトルだけ見ると難しそうですが、別に大したことありません。「道具としてのベイズ統計」をパラパラ見てるのですが、ベイズの立場にも色々あるのだぜ、っとツッコミを入れたくなったので、少し書きます。(別に僕はこの分野の研究者でも何でもないですが)

 

道具としてのベイズ統計

道具としてのベイズ統計

 

 

 

ベイズの定理、そう高校の教科書にも出てくる簡単なお話です。一般的にベイズ主義者というのは、確率を主観的なもの、個人の信念の度合いとして定義します。(詳しく言えば主観的ベイズ主義者)

そしてこれと対立の立場にあるのが、古典的な頻度主義者。ある種の確率は客観的なものと見なす人たちです。

 

どっちが良いか、上述の「道具としてのベイズ統計」を読んでると、あたかもベイズが一番良いみたいになってますが、そんなことはない。むしろベイズは崖っぷちにいつも立たされてますよ。というのも使える範囲が非常に限られてる。

いま確率の分野の専門家で、「私は~主義者です。だっだん!!」って言う人は少ないです。というか両方の美味しいとこどりをする中庸主義とも言うのでしょうか。そういう立場の人が多いです。

みんな分ってるのよね。コイントスの試行でさえ、実験の状況は時々刻々と変化してしまう。故に客観的に存在する相対頻度などというものは理想化の産物に過ぎない。ということを。

 

さてもうちょい詳しく言うと、ベイズ主義にもとづく統計的推論は、もしデータeが証拠としてあったときに、仮説θの確率は信念から p(θ | e)によって表されるということです。

そして古典的な頻度主義者は仮説がデータと完全に合うことはまれだから、仮説検定を大事にしようぜということです。もし検定をして違っていたら、仮説が間違っていたことにあるのか、はたまた、偶然によって起こったものなのかを判定する必要があります。

 

まあベイズに対する批判は信念に対してです。しかしそれらはベイズを根絶させようとするものではなく、ベイズは限定的であるという主張です。

どのくらいの信念なら確率に影響するか、その微妙な信念を説明する言葉も変わる変わるするではないかつまりその性質がよく分かっていない過程を研究しているのであれば、ベイズ主義は適用できないということです。

 

え、結局ベイズは良いの悪いの、そして頻度主義が古い統計学なの、という疑問を残してしまいそうですが、簡単に言えば、ベイズは限定的には非常に使える便利な考え方であり、頻度主義のようにデータを数学的に(例えば確率変数の独立性を調べる)解析する場合は頻度主義を使わなければいけません。両方必要なのです。ただいつ使えるかをわきまえなければいけません。

 

今度時間があれば、経験的ベイズ、階層ベイズを書いてみます。これらはかなり面白いです。統計データ一つ一つを個性と考えてパラメーターを増やしたらどうか。

 

長文失礼しました。